鹿児島群像 島津久光〜銅像をたどる


島津斉彬の突然の死により、
幕末の薩摩藩…
そして日本の政局に大きく
関わることとなった島津久光
こちらの像も大きな台座に
島津の「丸に十」の紋。
像のあるのは探勝園、
かつての二の丸庭園で、
25代当主 斉興の治世で
手を加えられその名となりました。

文久元(1861)年、
久光は宗家に復帰、
国父」として
藩政実権を握りました。
王政復古後は鹿児島にいることが
多かったようですが、
1874年には左大臣。
しかし欧化政策に反対する
意見が受け入れられず、
職を辞し、
政治の舞台からは退きました。

母はお由羅の方
家督騒動、
名君とされた兄から受け継ぐ重責、
良く兄を慕っていたそうです。
斉彬も久光の勤勉ぶりを
評価していたと伝わります。
久光の収集していた書物、
玉里文庫」として
鹿児島大学に所蔵されています。

薩英戦争、そして明治維新、
自己主張はするものの、
決して暴発はせず、
実は西南戦争にも加担を
しなかった…
久光の行動に対する評価は
好き嫌いが付きまといます。
ただ混沌とした時代の中で、
優秀な家臣をうまく登用し、
時代を乗り越えた
名君であったと。

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