赤備えの陣へ 若江の戦い 弐


幸町6丁目公園内にある
木村重成墓」。
木村重成は、大坂夏の陣の
元和元年(1615)の5月6日早朝、
大坂城から若江に進んだところ、
徳川方の井伊隊の槍に突かれ、
戦死したと伝わります。

宝暦14年(1764)の重成の
百五十回忌にあたって、
重成の首を落とした
安藤長三郎の子孫である、
彦根藩士の安藤次輝
建てたものだそうです。

公園の東隅には…
石碑がありました。

右側には
噫(あゝ)忠勇義烈」。
陸軍中将 谷寿夫誌とあり、
1939年に建てられてもの。
「此付近木村重成奮戦地」
墓石を見ると…角が丸く
なっているのがわかります。
墓石を削って飲むと、
勝負事に強くなるとの
俗信仰によるものだとか…

墓前の松の葉を布団の下に
敷いて寝ると、
子供の寝小便や
夫の浮気に効果があるとも…
ネコが陣取っていました。
何か気になることでもあるのかも。
重成と同じ日に戦死した
重成の妹婿の山口弘定の墓も
建てられていました。
木村重成は戦を前に、
洗髪して香を焚きこめ、
兜の緒を固く結んでいたとか…
「自分の手で再び
 兜を脱ぐことはないであろう」
と決意がこめられていました。

実は家康と秀忠は、
真田幸村後藤又兵衛
勇将の首実検には立ち会わず、
木村重成のみ立会ったようです。
辞世の句
「五月雨や 
   啼いて今夜は 不如帰」

冬の陣の和議の際、
豊臣の使者だったのが重成、
家康の押した血判が薄いと、
再度押し直しさせた人物。
豊臣直臣は重成この人こそ、
徳川方もそんな認識を
最後まで持っていたんだと、
それを垣間みせる話です…
河内街道にたつ道標。
十三越とは十三街道のこと。
もとは重成の墓の場所は、
重成と戦った山口重信の碑
向き合って十三街道あたりに
祀られていたようですが、
重信の碑は折れ、
重成の墓は後向きになったとも。
そのためか、
無念塚とも呼ばれたそうです。
いまは別々に…
若江鏡神社
古社でありますが、
若江の戦いの兵火で焼失。
いまの社殿は1928年に
再建されたものです。
となりにある「蓮城寺」、
木村重成の位牌が祀られている
行基による創建と伝えられます。
河内音頭発祥の寺としても
知られる名刹でもあります。
カギが開けられていて、
自由に参拝くださいとの
ことでしたので…中へ。

重成と夫人の位牌ともに、
左に加藤清正像があります。
この御堂そのものが、
九州にあった日蓮宗の
お寺から移された
清正公堂だったというのが、
その理由です。
馬堀法眼喜孝の筆によるもの。
肖像画の第一人者で、
旧一万円札の聖徳太子、
旧千円札の伊藤博文、
旧五百円札の岩倉具視などの
肖像画の作者なのだそうです。

若江岩田駅に向かうと、
広場の奥に銅像…
近鉄の幸村マップには
なかったスポット。
キレイに伐採されて
整えられていますが…
奥の碑石は倒れていて…

さびしげな武将の姿。
一帯が木村軍の陣所跡だとか…
若武者のイメージの重成とは、
ちょっと違うような気もします。
1932年(昭和7)に建てられたもの
なんですが…
若江村の村長を務めた人物が、
陣屋跡と想定される
自家敷地内に銅像を建てたのが
はじめだとか…
戦時中に金属接収されたが、
いまあるのは石像だそうです。
いずれは蓮城寺内に
移転しようかと、
そんな話もあるらしいです。
奥にある立派な石碑
木村長門守夫人 貞烈碑」。
大坂夏の陣のあと
生前の重成の指示通り、
滋賀県近江八幡あたりの
親戚を頼って落ち延びます。
その後 重成の子供を産んで、
重成一周忌の日に
持仏堂にこもって
自害したとか…享年20歳。

河内街道の一部は、

木村通」と名付けられる、
いまなお残る重成終焉の地。

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