2016年6月30日木曜日

倉敷で遊びょーる② 虎次郎の由緒


倉敷といえば“大原美術館”ですが、
アイビースクエア内にも美術館の
分館なるものがあります。

「大原美術館 児島虎次郎記念館」が
この赤煉瓦です。
倉敷紡績の第二代社長の
大原孫三郎という人は、
現在の早稲田大学である

東京専門学校で学ぶのですが、
学業よりも遊興に身を投じたとか。

若いときは倉敷に、
連れ戻されるような
生活をしていたようです。
ただ、
孝四郎のあとを継いだ後は、
自らの行いを悔い改め、

実業のさらなる発展に尽くします。

そして記念館の名にあるのが、
自画像の児島虎次郎です。

虎次郎は1881(明治14)年、
現在の岡山県高梁市成羽生まれ。
大原家の大原奨学会から支援で、
東京美術学校西洋画科へ入学。

【「和服を着たベルギーの少女」1911】

その後孫三郎が、
ヨーロッパ留学を勧め、
ベルギーの美術アカデミーを
首席で卒業し、帰国。

【「朝顔」1916-1918】

一歳違いの二人は、
画家とパトロンという間柄を
越えた生涯の親友だったそうです。

一方で、
孫三郎は石井十次との交わりから、
石井経営の岡山孤児院の支援をはじめ、
社会事業にも取り組んだそうです。

倉敷へ戻った虎次郎は、
孫三郎らの勧めで
石井十次の長女・友と結婚。

今の倉敷市酒津
新居とアトリエを構えたそうです。
風土や画材の違いに悩みつつも、
ベルギーでの学びを活かし、
地元の景観などをモチーフに、
数々の優れた作品を描きました。

記念館はもとは、

倉敷紡績工場の製品倉庫として
建てられたものです。

工場敷地の西北隅に位置し、
コの字型平面。

入口廻りの額縁のデザインが印象的、
要石の位置にクラボウの社章、
「二・三のマーク」


「社訓「謙受」の精神をシンボライズ。
 人々はとかく一番になると、
 慢心し心が緩み後退するので、
 たとえ何事において
 一番になったときでも、
 常に二番・三番にいる気持ちで、
 一番を目指すつもりで努力せよ、
 という訓戒をカタチにしています。」
のだそうです。 クラボウHPより

瓦葺の鬼瓦にも社章がみえました。
「児島虎次郎記念館」
建築年:1906年(明治39)
設計 :不詳
構造 :煉瓦造2階建、瓦葺
所在地: 岡山県倉敷市本町1160

2016年6月29日水曜日

倉敷で遊びょーる① 倉敷紡績発祥の地


今年の広島遠征は梅雨真っ只中!!
天気予報がしっかり当たって、
涙雨の三連戦(T_T)
になってしまいました。

雨雲が迫ってくる前に
倉敷をぶらりと…

遊びょーりました。

倉敷は江戸時代は、
天領として栄えた地。

ただ明治維新によって
米と綿の単なる集積地で、
発展から取り残されたそうです。

暗い状況から脱却しようと、
倉敷紡績の創設に
立ち上がったのが大原家でした。

倉紡記念館」は
創業時の原綿倉庫を改修したもの、
まっ白な漆喰仕上げで、
腰を板貼りとした土蔵造り。

増築時に2棟がつながれて、
コの字の平面配置にされています。

左隅の部分の境界は、
煉瓦壁が建ち上げられています。

開館前の入口はこんな感じでした。

提灯の左にあるのは、
イギリスから輸入された消防器具
綿を扱う紡績工場では、
火災の死活問題…従業員の
生命第一の思いなのでしょう。

奥にみえる
大型ストーブのようなものは、
プラット社紡績機械」。
倉敷紡績の品質を支えた機械です。


こちらは“棟方志功の書画”
玉琢かざれば器とならず、
   人学ばざれば道を知らず
」、
描かれたハマナスは強く生き、
美しい花を咲かせるように、
勉強を続けようという意。

戦時中、大原總一郎社長が
従業員たちへの思いのたけをと、
強い願いを棟方が応えたものです。

第4室には、
大阪万博のパネルがありました。
せんい館」に参加したこと。

「せんい館」の
キャッチフレーズは、
“若いあなたのパビリオン”。
ファッションショー」も
当然のことながら見所のひとつ。


至極当然なことですが、
ユニフォームも
他を寄せ付けない、
繕いだったと言われています。


こちらは本社工場集塵室塵突
1889年(明治22)の建設。
始業終業の合図として
使われていた「鉄鈴」。
蒸気によって鳴る
作動装置も当時のまま。
塔屋のフォルムもよすよす。


英国風の鋸型の屋根にも会えました。
倉敷という地名の由来…
蔵屋敷が転じたとも、
中継所として物資を
保管している所を
倉敷地」と呼ぶことからとか。

「倉敷紡績記念館」
倉敷紡績 倉敷工場 原綿倉庫→
建築年:1889年(明治22) 西側の南半分
    1896年 増築
設計 :石河正龍、島田覚人
構造 :木造、一部煉瓦造り2階建て
【国 登録有形文化財】

大阪の近代化遺産をあるく〜京町ビル


西船場北エリアではひときわ
大きな近代建築「京町ビル」は、
大大阪の記憶を刻むテナントビル。

4階部分の3連アーチ窓

1階部分はグレーの石貼り。



2階から上は褐色のタイル
窓周りの縦ラインの
コンクリートが印象的。
セセッション風というやつ。

窓の間にはテラコッタ
レリーフがアクセントを添える。

北の角にいくと、
四ツ橋筋側を長辺とした
台形ビルやと分かります。
施主が敷地いっぱいに
建てたことの証なのです。

北面には木製の両開き扉。
ほとんど昔のまま、
手がつけられていないそうです。

「建築家は様式としての
 完全性を求めながら、一方で
 オフィスビルの事業性にも
 応えなければならない。」
葛藤のうえの産物なのでしょう。

建築当初は4階に
清和倶楽部」という社交場、
5階には「京ビル食堂」が
あったそうです。
ちょっと大江ビルダイビル
共通するところがありますね。

ただ5階の上にはさらに・・・
増築が見えます。
これもテナントビルとして、
収益性を求めた結果なのかも。


「京町ビル」

京町堀ビルディング→
建築年:1926年(大正15)
設計 :岡部顕則(岡部建築事務所)
所在地:大阪市西区京町掘1-7-1

大阪の近代化遺産をあるく〜崎山ビル


靱公園の東側にある
大正時代のビルだそうで…
今は剥落防止の
ネットが被せられていて、
すでに廃墟化…

お洒落な佇まいも

ザンネンな状態に。

2010年頃までは1階で、
イタリアンレストランが
営業していたようです。

植物を描いたステンドグラス
もう少し早めに手が
入れられていたらなぁ〜。


裏に回ると…
コインパーキングがあるので、
全貌が見て取れます。
少しセンターをはずれた部分が、
せり出しています。

2007年に発行された

大大阪モダン建築
青幻社刊には、こうある…
「OUIUM(オピューム)という
 イタリアンレストランが
 本格的な料理を提供し続けている。
 内部は小さな玄関からは
 想像できない天井の高さ。
 天井の梁には幾何学模様の
 細かな装飾が残り、
 円柱の壁柱がそれを支える。
 オーナーは天井の高さを活かして
 2階にロフト席を新設、
 照明も自らデザインするなど、
 元の空間を活かした重厚な雰囲気の
 レストランになっている。」

窓のデザインも秀逸。

モザイクタイルの
組み合わせもなかなか。
アルミサッシのところは、
最近まで使われていたエリア?。




「崎山ビル」

建築年:1923年(大正12)
設計 :不明
構造 :鉄筋コンクリート造り4階地下1階
所在地:大阪市西区靱本町1-6-2