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新淀川への分水〜毛馬こうもん

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「 毛馬こうもん 」まで行き着くと、 淀川と大川の流れを実感します。 その昔… ここで淀川は大きく左へカーブ。 大阪市内を通って大阪湾に 流れ着いていました。 たびたび氾濫を起きたため、 明治中期に大改修が 行われのだそうです。 1885年(明治18)に 起こった淀川大洪水を契機に、 作られたのが「 毛馬第一閘門 」。 付け替えられた新しい淀川と 大阪市内へ流れる旧淀川(大川)の間に 生じた水位差をコントロールし、 安全に船を行き来するためのもの。 役目を終えた第一閘門は、 今は見学自由になっているので、 歩いて行き来することが可能です。 こちらは「 係船環 (けいせんかん) 」。 扉と扉の間を 「 閘室 (こうしつ) 」と言うのですが、 その中に停泊する船を安全に 繋ぎとめておくものです。 高いところと低いところに、 あるのは水位が変化するからなのです。 閘門の扉は「 マイターゲート 」という 名前が付いています。 これを考案したのは、 あのレオナルド・ダ・ヴィンチとか。 マイターゲートは日本的に言うと、 観音開きのの扉のこと。 水圧はかかるのですが、 扉の上部に構造物がないのが特徴。 背の高い船でも 比較的通すことが可能です。 この毛馬第一閘門の設計は、 東京大学に入学、 フランス留学で近代土木建築技術を 学んだ 沖野忠雄 その人です。 帰国後は、内務省の土木技師として 治水工事と港湾の開発に捧げた人です。 日本全国のほとんどの 河川と港の改修工事に携わったのは、 沖野さんその人だと・・・ 見上げると「 淀川竣工紀功碑 」。 オランダ人技師 デ・レーケ らの 工法が修正応用されています。 紀功碑そのものも見所多しですが、 装飾分解が進んだとされる 「 セセッションスタイル 」。 下半部は洋風建築の細部意匠が 忠実に表現されていて、 ミサイルのような上部と対照的です。 紀功碑のたもとには「 毛馬元標 」。 明治から昭和にかけて、 大阪港建設や 淀川改修工事の高さ基準、 1966年まではここが元なのです。 大阪の基準は日本全国の基準面より、 なんと… 1.30メートル低かった そうです。 「 毛馬閘門 眼鏡橋 」 かつては長柄運河が流れていたとか。 鉄骨補強は1980年の補強のもの、 1914年のデザインのままです。 「毛馬閘門

蕪村のふるさと②〜蕪村公園

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「 春風や 堤長うして 家遠し 」 淀川堤防上にある 蕪村句碑と生誕地の碑。 『 春風馬堤曲 』にある句は、 自筆を拡大して刻まれています。 初代句碑は 地元有志のものだったのですが、 淀川改修工事で一時的に 取り除かざるを得なくなったのを、 復活したのは1978年2月のこと。 ちなみに生誕地の碑は、 1979年3月に 大阪市が建てたもの。 蕪村は生前自らの出身地について ほとんど語らなかったそうです。 ただ唯一の例外… 「 馬堤は毛馬塘也則   (つつみなりすなわち)   余が故園也。 」の言葉。 ちなみに 毛馬 という地名は、 天正年間に織田氏がこの地に 毛馬城を築き布陣したこと、 古くは雑草の茂る毛志島と呼ばれ、 それがなまって毛馬???とか。 毛馬閘門の手前にひろがる 蕪村公園 には蕪村の句碑が並びます。 いくつかを・・・ 「 なの花や 月は東に 日は西に 」 訪れた頃… 紅梅が咲き誇っておりました。 「 春の海 終日のたり のたりかな 」 ついうとうとと気持ちよく 眠ってしまいそうな風景で 浮かんだ一句なのかもしれません。 こちらはボケの花。 「 鳥羽殿へ 五六騎いそぐ 野分哉 」 保元の乱の時、 崇徳上皇は鳥羽殿にあって 兵を挙げたが、 その鳥羽殿へ味方の兵が 馳せ参ずるさま。 「 夏河を越す うれしさよ 手に草履 」 「 夕風や 水青鷺の 脛をうつ 」 夕風が吹いている。 川面に青鷺が立っている。 夕風に吹かれて川は少し波立ち、 青鷺の脛 (はぎ) を 波がしきりと打っている。

蕪村のふるさと①〜駒繋の樟

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虎次郎が住むオトナリの区  都島区の広報誌の 新年号の お猿さん。 与謝蕪村 筆による 「 猿鹿図 」 (さるしかず) 。 ぶらりと過ごした、 初春の地元史跡探訪を綴ります。 谷町線 都島駅の地上にある 農業用水門。 その昔は 「かすがえ」 という名の地だったとか… 淀川の水利に恵まれた 田園地帯のシンボルとして、 再現されたものです。 こちら 楠玉神社 さん。 日本製紙㈱都島工場・ 日本板紙㈱大阪工場の 守護神として祭祀されていたのが、 櫻宮御旅所の一角に遷座されたもの。 「 駒繋楠 」 (こまつなぎのくすのき) 。 源頼光 の四天王の一人で、 善源寺荘とよばれる荘園の管理を 任されていた 渡辺綱 が、 この神社に詣でるとき、 いつも馬を繋いでいたからとか。 大阪府の 天然記念物、 大阪府第1号の指定 は、 この樹齢900年の樟。 ただ… 残念なことに戦災にあって いまは枯氏状態になってます。 頼光は長徳年間(995〜998)に 八幡大神を祀ったのが神社の創建。 樟はそのときに、 自らが植えたのだとか… さらに北へ向かうと、 遊歩道に架かる橋。 その名も「春風橋」。 そして「 淀川神社 」へ 社伝は定かでないのですが、 平安時代の初めごろにいた 淀川河口の海賊を取締るため、 武士が配備されたそうです。 全国の名だたる守護神として 祀られた数から、 「 十五神社 」との名がありました。 与謝蕪村が生まれたころには、 毛馬町4丁目あたりにあった 「 八幡神社 」とともに、 近くには二社が鎮座していたとか。 祭礼には幼少の頃に なれ親しんだと想像されていて、 村人たちの心の拠りどころ だったと伝わります。 2015年よりはじめられた    「淀川神社絵馬」。 「 菜の花や 月は東に 日は西に 」 蕪村の俳句の 裏に、 俳句と願いごとを書くそうです。 ところで 蕪村の生家 は何処に… 答えは跡形もなく淀川に埋没し、 深い川底に沈んでいるそうです。 明治政府が行なった 「河川大改修工事」。 川幅はもとの10数倍となって、 浅かった河の深さも5メートルの 巨大河川に変容しました。 蕪村生誕家の後継者の思しき人も、 「お寺も埋没し 「過去帳」もないために、 蕪村生誕