花燃ゆ防府へ① 防府天満宮


井上真央ちゃんと大沢たかおさんの
熱演に支えられた
大河ドラマ「花燃ゆ」縁の、
防府に行ったネタを蔵出し。
ブログれなかったのは
公私共に多忙であったため(TOT)


ず〜〜〜と前から気になっていた
防府天満宮」にお参りを。
9月の広島遠征当日に
始発の新幹線に乗って、
訪れたときのお話です。
防府駅を降りると
ほうふ花燃ゆ 大河ドラマ館」。
時間がなくて見れてないけども。
ループバスの運行やら
ボランティアガイドさんが
各所におられて、
歓迎ムード一色でありました。
境内に立つ「扶桑菅廟最初」の碑。
最近のものではありますが、
菅原道真が大宰府に流される
途中に一泊された場所に当たります。
904(延喜4)年に
日本最初の天満宮として祀られました。
その後、大内弘世、義弘、盛見から
毛利元就、輝元、重就によって
社殿が造営されて今日に至ります。
山秀水麗 維新神所憩」は、
儒学者 村瀬拷亭が著した
享和2年(1802)「菅公廟頌詩」による。
右手の「爰宮爰祀 維神所止」と続く。
正面の蟇股には梅鉢
そして松竹も備わるお目出度い意匠。
鳳凰の装飾彫刻も実にみごとでした。
菅原道真といえば、
阿衡の紛議や遣唐使の停止といった国難を
解決していった政治家として知られています。

民政一般を司っていた時期は、
領内の安全を祈ったり、
日照りには神に雨乞いなど、
農民たちの貧窮をなんとかしようと、
現場で労をつくしたと言われていて、
経済の面でも検税使の派遣廃止
をやり遂げています。

検税使とは諸国に派遣される財政監察官、
一見必要な職にも思えますが、
不作の年などは時として
税の運用の自由を失い、
かえって農民を苦しめていたそうです。

こちらが1958年再建の本殿です。
入母屋造の本殿と拝殿を
両下げ造の幣殿が繋ぐ複合社殿、
装飾が多かった
1952年に焼失したものとは異なり、
彫刻類のほとんどないカタチです。

「此地いまだ帝土を離れず
 願は居をこの所にしめん」との
菅公の願いに沿ったのだそうです。
帝のおわす都と地続きの本州最後の地、
菅公の「お住まい」との願いによるもの。
建築史家の村田治郎さんの指導のもと、
杉山信三さんの設計のこの本殿は、
2009年に国の登録有形文化財に
指定されています。

奥に見えるのが「春風楼」。
もとは藩主 毛利斎煕(もうり なりひろ)は、
五重塔の建立を発願したのですが、
その後幻にの塔となり明治の廃藩へ。
文政期着工時に造作した塔の
一層部分の軒下の組物を
そのまま床下に組み入れた
楼閣様式重層のお籠堂となっています。
かの伊藤博文はもとは
周防国熊毛郡束荷村で、
現在の光市の農家に生まれ、
少年のころ萩に引っ越したが、
その途中に防府に生活していたそうです。
防府天満宮の社坊のひとつ

大専坊」の住職だった親戚を頼り、
学んだ経験があると伝わります。
西日本遊説で北九州、長府を経て
防府に立ち寄ったのが明治32年5月31日、
大専坊で学んでから、およそ半世紀後ぶり。
その時に春風楼で催された歓迎会での写真。
最前列、左手で白い帽子を持っている姿。
「花燃ゆ」に戻ります。
楫取素彦美和子
防府で晩年を過ごしました。

明治維新後の初代群馬県知事として、
群馬の産業・教育の近代化に寄与した後、
防府に居を移したのが明治26年のこと、
亡くなるまでの約20年間、
防府の発展に尽力しました。
彼らの墓所と位牌は、
市内の「大楽寺」にあります。

仲睦まじい二人の縁もあって、
ここにもLOVE神社になってるとか・・



社殿への石段には「ほうふ天神人形」を
かたどったモザイク画。
ゴールデンウイークの時期には
花のプランターで「幸せます」という
文字が描かれているそうです。
防府のこと、
すこし綴ります(・ω・)v

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