よさこい七の巻 安芸の時をあるく

安芸市の旧市街地は、
ごめんなはり線安芸駅より少し北にあります。
安芸のシンボル「野良時計」までは、
歩くには遠いので無料サイクル
貸してもらって行ってきましたよ。

明治の中頃、
旧家 地主の畠中源馬さんが、
台所にかかっていた
米国製の掛時計の分解を繰り返して、
その構造を学び歯車から分銅まで、
手づくりで作り上げた時計台です。

家ごとに時計のなかった時代、
農作業をしていても
遠くから見れるようにと願いは、
いまなお多くの人々に親しまれています。

こちらのお城のような形の建物は、
安芸市立書道美術館」。
”書の殿堂”として全国でも知られていて、
この日も「全国書展 高校生大会」の会場に
なっていました。

なぜお城のようかというと・・・
鎌倉時代の頃から戦国時代末期まで、
代々居住していた
安芸氏の居城があったところ。
いまに伝わる毒井戸跡は、
安芸氏を制圧しようとした
長宗我元親への抵抗の表れ。
当時城主の安芸国虎は自害し、
家臣は四散した時が刻まれています。

城を打って出て奮戦したそうですが、
内通者が機をみて井戸に毒をいれたとか…
落城を早めた原因の一つとして、
今に語り伝えられているものです。 
そして安芸の地は、
長宗我部氏から山内氏へ、
土佐藩家老 五藤家を祀る
お社「藤崎神社」。 
ご神体は鏃(やじり)と草鞋なのだとか。

山内一豊が織田信長に従軍したときに、
一豊が目尻に射られた矢。
なかなか抜けなかった矢を、
履いていた草鞋をはいたまま、
一豊の顔踏んで抜き取られたそうです。
一豊の一命をとりとめたのが、
重臣の五藤 為浄(ためきよ)その人なのです。

安芸といえば 岩崎彌太郎

生家の土蔵の鬼瓦には「三階菱」。 
岩崎彌太郎像の前の広場には、
大きく日本列島が描かれていました。

岩崎家の先祖は安芸国虎の家臣で、
長宗我部氏 山内氏ともに
仕えていた武家でありました。
ただ、彌太郎の曽祖父にあたる代に、
金に困って身分売り払い「地下浪人」と
呼ばれる農民変わらない身分へと、
転落していたそうです。
生家に残る小さな庭園の石組は、
少年時代の岩崎彌太郎が
天下雄飛の夢を託して、
日本列島を模して自作したのだとか。

大志を抱いて江戸に上った彌太郎は、
弥次郎の酒席の喧嘩がもと
父が投獄されたことで帰郷。
奉行所に父の冤罪を訴えでるのですが、
訴えがあまりに激しかったことで、
奉行所の怒りを買い自身も獄につながれます。
ただその獄中で元参政・吉田東洋
出会ったことで、飛躍の道が開かれ、
後藤象二郎にも引き立てられこともあって、
才覚を発揮する転機となるのです。

慎ましい暮らしにありながらも、
夢とそれを叶えるチャンスを活かす力。
安芸という国に訪れて、
行動力のある人物が傑出された一面に
触れることができました。 
安芸駅ぢばさん市場で買った田舎寿司
魚は入っていないんだけどウマウマ(・ω・)v

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