ゼロロクの尼崎⑦ 櫻井神社

尼崎藩の歴代藩主の名は櫻井
1882年(明治15)に
尼崎藩主松平氏の祖である、
櫻井信定を祭神として、
旧藩士の有志が旧城内の
西大手橋東詰に建立したのが
始まりなのだそうです。
旧尼崎城の九曜紋入りの瓦。
櫻井信定は戦国の世に勢力を広げ、
三河安城の地に基盤を
築いたのだそうです。
ただ七代目 忠頼が、
若くして28才で亡くなり、
お家断絶なったのであるが、
十代目 忠喬の代になって、
遠州掛川より
尼崎城に移封してきのだそうです。
城主は代々文芸に優れていたと伝わる。
尼崎三代目城主の忠告の句が
境内の石柱に遺されています。
まづ霞む 竈々や 民の家
そしてここは日本赤十字社
発祥の地でもあります。
最後の城主となった忠興は、
187年(明治10)の西南戦争のおり、
敵味方区別なく戦傷者を看護されとか…
それ故ここが世界赤十字に認められ、
日本赤十字社の誕生に繋がります。

境内にいた「多賀得 タガエル
カエルの子のオタマジャクシは、
お多賀杓子が語源となのだそうです。
その役目から すくい取る、めし取る」、
幸運を招き寄せる力を秘めているとか…
摂社には日本の国土を創りだした神、
夫婦和合の神「多賀社」が居られました。
学問の神として「契沖神社」とともに。
契沖は13歳から高野山で学び、
阿闍梨となった真言宗の僧侶でしたが、
万葉集をはじめとした
歴史的かなづかいの研究者として
画期的な業績を残した「古典学者」。

江戸時代の初期1640年(寛永17)に
生まれたのがこの辺りだとして、
尼崎市を中心に活動する
契沖研究会さん建立の石碑が
ほど近くにありました。

契沖の父・下川元全は、
もとは熊本藩加藤氏の
家中だったそうですが、
契沖生誕時がちょうど、
尼崎藩に仕官していた時でした。

話はすこし逸れますが…
元禄文化の担い手たちには、
武家出身者が多いようです。

松尾芭蕉は伊賀上野の郷士出身で、
その後 俳諧の道を極めます。
貝原益軒は下級武士の子ですが、
儒者として仕官するまで
浪人生活を経験しています。
近松門左衛門も父は元福井藩士とか。

当時はこれら文化人を支える
パトロンとなれるだけの力を持った
庶民が存在していたということ。
元禄文化のひとつの特徴でもあります。

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