ゼロロクの尼崎⑤ 06のワケ


ユニチカ」の前身である
大日本紡績株式会社貝塚工場の
日紡代表女子バレーボールチームに、
大松博文 監督が就任したのは、
1953年11月27日のこと。
チーム発足後ほどなく、
女子バレーの4大タイトルを獲得。
2年で日本一のチームを」の願いは、
チーム結成5年目にして国内大会制覇。
そして「東洋の魔女」へ。
ニチボー貝塚が主メンバー、
東京オリンピックの出場へと…
ユニチカ・フェニックスは、
現在V・プレミアリーグに所属の
東レ・アローズに受け継がれています。

ユニチカ記念館」の2階は、
さまざまな資料が見られました。
1941年に大日本紡績と合併解散した
岸和紡績」の看板もありました。
鯛といっしょだからゑべっさんかな?
日紡のパッケージいろいろ。
ユニチカの新聞全面広告とか…
2階への階段を見上げると…
新歌舞伎座の緞帳の一部が
掛けられていました。
1974年から1988年まで飾られていた
芳園清唳(ほうえんせいれい)
上村松篁(うえむらしゅうこう)さんの図柄で、
京都の龍村美術織物が作られたものです。
昭和天皇が行来された時の玉座
応接室
マントルピースはシンプルながらも、
装飾性はいまなお色褪せていません。
で…ゼロロクの話を。
兵庫県なのに、
なぜ尼崎市の市外局番は06なのか
1893年(明治26)4月20日に、
当時の尼崎紡績に電話が必要になり、
大阪電話交換局で許可をもらい、
大阪から尼崎の工場まで
自力で尼崎紡績が電柱を立て、
電話回線を引いたのだそうです。
時代を経ても今なお
尼崎市への電話は大阪市内から
市外局番なしでかけられる!!
理由はココにありました。
ゼロロクの尼崎」は続きます。

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