その手は桑名の焼き蛤② 六華苑 和館

ふたたび「六華苑」。
なぜ??
広大な敷地に豪奢な洋館と、
大構えの和館をつなげ合わせたのか…
こちらは洋館2階とも連絡する
「隠居部屋」なのだそうです。

どちらかというと洋館が居住空間だったのかも。

洋館の基礎石にみられた換気孔は、
諸戸家の家紋【違い鷹の羽】が
刻まれていましたが、
来客用の和室にあるのは、
諸戸家の家紋ではありません。
皇室と政府への気配りのひとつとして
家紋を組み合わせてつけられています。
いかに相手のことを考えていたかという
諸戸清六さんの人柄が見て取れます。
諸戸家は戦国時代に一向宗門徒として
織田信長に抗した「丹羽定直」に由来するとか。
定直は織田軍との戦闘の折に、
城中の戸坂を集めて矢や石を防ぎつつ
縦横無尽の働きをしたため、
証意上人より「諸戸」の姓を賜ったとのこと。

その後みずから開墾した今の
三重県木曽岬町あたり「加路戸新田」で
代々庄屋を勤め、幕末に至った家柄。
旧諸戸清六邸は、
二代目清六が1912(明治45)着工、
1913年(大正2)に竣工した建物でして、
1階は西側に格調の高い客座敷、
東側に内向きの座敷があります。
江戸時代末期の塩の売買が不調により、
2000両もの負債を抱えるのですが、
初代清六は一家でここ桑名に移住、
米穀業によってわずか3年で負債を完済。
明治維新後は西南の役や米相場で蓄財、
1886年(明治19)には
海防費2万円を政府に献上、
翌年には従六位に叙せられました
こちらは「旧高須御殿」の奥の間。
岐阜県海津町にあった高須藩御殿の一部が
移築されたものだと伝えられています。
「一番蔵」

東海道の宿場町として
広く知られていた桑名は、
陸運、海運ともに
商業都市として栄えていました。
清六はこの地の利を生かし、
時流にもうまく乗ったのだと思われます。

こちらは「二番蔵」、
和館北廊下と繋がっていて、
接客用調度品などを収納されていました。

「番蔵棟」の内部は四部屋あり、
主に米が備蓄されていたそうです。
田畑、山林を経営し、
日本一の大地主だった諸戸家ですが…

社会貢献も半端なかったそうで、
晩年には桑名の飲料水不良解消目指し、
莫大な資金を投じて、
独力で小野山に貯水池をつくって、
上水道を完成させたのだそうです。
町民には無料で開放され、
清六さんが他界されたのちは、
遺志により桑名町に寄附されたとか。

客間奥にある便所は和式ですが、
水道王の邸宅だからキッチリ水洗なのです。
創建当時は着物がまだ一般的だったから、
スペースを広く取ってあるのです
ここにも清六さんの「もてなし」の
心が見て取れます。 

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