絵にみる和食通⑤ 天ぷら むまそう

京阪や長崎で天ぷらは社会の
上層部へ迎えられたのだが、
江戸ではどちらかというと
庶民食だったといわれます。
浮世絵は月岡芳年の
「風俗三十二相 むまそう」。
明治に入ってからの大判錦絵なのである。
「むまそう」は「うまそう」。
天ぷらを箸でつまむ女が思わず、
目を細めて「うまそう」とつぶやく。
(嘉永年間女郎之風俗)

江戸で天ぷらの登場は、
武士社会ではなく屋台の食べ物でした。
それには「家康の鯛の天ぷら死亡説」
影響していると言われています。

『徳川実録』にはこんな感じに...
『家康公は元和二年正月21日
 駿河の田中(現在の藤枝市)で
 鷹狩をしておられた。
 そこへ茶屋四郎次郎が京より参謁して、
 いろいろな話をしている中で、
 家康公から近頃何か上方で面白いものはないかと
 尋ねられたので、そうですね、
 このごろ京阪の辺では鯛を榧(かや)の油で揚げ、
 その上に薤(にら)をすりかけて食べるのがあります。
 私も食べましたがなかなか良い味わいでした、と答えた。
 ちょうどそのときに榊原内記清久より
 能浜の鯛が献上されていたので、
 早速その鯛で調理するように命じられ、
 それを食べた。ところがその晩より腹痛が始まり、
 急いで駿河の城に帰り療養するのだが、
 一旦は治まったかに見えたが
 ご老体のことでもあり
 またぶり返しなかなか良くならない。
 家康公も心を決めた様子に見え...。』とある。
ここには「天ぷら」とは
一言も出てきてはいないのだが。

当時の料理書
『大草家料理書』や『料理物語』などには、
「鯛南蛮焼は油にて揚げる也」とか、
「鯛を焼いて豚脂で揚げた後
 煮ると南蛮料理という」とあり、
家康が食べたのは“天ぷら”というよりも、
”空揚げ“なのではないかと思われるのです。

「天ぷら死亡説」だが、
実は家康は亡くなる1ヶ月前に、
太政大臣任官の宣命を拝したのち、
城中で能楽を催していたのである。
その間衣冠束帯姿で、
病中の人とは見えなかったと記録がある。
鯛の空揚げ」を食した後の
体調の不調はあったものの、
死因は持病の進行によるものなのでしょう。

で...
徳川家康が天ぷらで死んだとされるのは何故か?
それは江戸の大火が影響している。
実際に江戸城では天ぷら油による
ボヤがあったとされていますし、
天ぷら油発火による火災の予防を意図し、
徳川家は天ぷらを禁忌なものとしたのでしょう。
「近世職人尽絵巻」(部分)鍬形恵斎画

手ぬぐいで頬かぶりをしているのは、
二本差しの武士の姿...
ご法度だったことを伝えています。

ちなみに...
てんぷら蕎麦の登場は江戸時代後期
天保8年(1837)に刊行された
守貞謾稿』には、
『天ぷら 芝海老の油揚げ三、四を加える。』 
『天ぷら・花巻・しっぽく・
 あられ・なんばん等皆丼蜂に盛る。』とも。

天丼は新橋にあった蕎麦屋「橋善」が、
天ぷらの残りを利用して明治に入ってから、
開発したものなのだそうです。
久しぶりに「一宝」さんの
天ぷらが食べたくなりました。
実は東京店の店主は香里のツレなのです。

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