同志社の赤煉瓦たち⑥ 彰栄館


アメリカン・ボードの寄付により
D.C.グリーンが設計した「彰栄館」は、
もともと小規模の英学校として
スタートしていた同志社が、
今の今出川キャンパスである薩摩藩邸跡
移って初めて誕生した煉瓦建て校舎。

東側に向いた左右対称の建物である。
1951年に同志社中学校の教室棟として
増築された新彰栄館が、
正面右側に接触していたため、
左右対称のファサードになっていなかった。
新彰栄館は2012年末に撤去され、現在復元中。


館名はそれまでは建築順に第一寮などと、
付けられていたが宗教的な名前が冠された。
竣工時に二度目の渡米の途にあった
新島襄は
「彰栄ノ家彰栄館ト名ケラレシ由、
 誠二美ハシキ名ニシテ(中略)

 我事業ノ其名ニ負ケザル様致シタシ」と、
その竣工の報に接して日記に記したのだという。

キリスト教に風当たりの強い時代であったが、
京都府顧問であった山本覚馬が、
京都・相国寺門前の薩摩藩邸跡地を所有していた。
その5900坪を学校建設のために、
500円という超安値で売り渡したことが、
同志社をさらに大きくさせたと言われる。

塔屋は鐘塔と時計塔を兼ねており、
毎朝の礼拝を告げる鐘の音は、
同志社中学校が岩倉キャンパスに移転するまで、
司鐘生」と呼ばれる中学校の生徒が
担当していたのだそうだ。

「ある朝チャペルの礼拝の話の中で和田琳熊先生が
 「相国寺の鐘はGoneゴーンと消えてゆくが
  彰栄の鐘はCanキャンと叫んでいる。
  これは仏教徒キリスト教の性格の相違を
  象徴しているかのように思える」
 と語られたのは今も忘れられない。」
    (加藤延雄「彰栄館の時計と鐘」より)


設計のD.C.グリーンは宣教師は、
実は建築の専門家ではなかったのだそうだ。
子供のころ祖父の煉瓦積みを見ていた、
という経験を生かし設計したというが、
京都の町大工と力を合わせて作り上げた。

外壁はレンガ造りですが、内部は二階建ての木造で、
屋根も純和風の小屋組に日本瓦が葺かれ、
鬼瓦までのっています。
内部の構造は太い檜の柱と太い丸竹の壁下地、
これを土で塗り込めて厚い壁が作られていて、
まさに土蔵や城郭と工法が使われている。


校舎の建築が進むころ、
新島は英学校の大学昇格を目指して
精力的に東京を中心に活動していた。
ただ、ドイツ人医師ベルツに
いつ死んでもおかしくない」と
言われるほどの健康状態のなかで...
私立学校が大学昇格運動は、
この頃激化していったそうだ。

最初に認可されたのは、
福沢諭吉の「慶応義塾」で、
同志社はそのパイオニアを飾ることが
出来なかったのだが、
そこには政府に顔の利く諭吉の存在が
大きく立ちはだかったのだと思う。

1890年(明治23)に新島は力尽きる。
実は英学校の礼拝堂での葬儀の日が、
慶應義塾・大学部の開校日であったという。
そして...
同志社の大学昇格は1912年のこと。
新島の死後22年たってのことである。

彰栄館前のイチョウの雌木
秋になると踏まれた銀杏の匂い...
これもまた懐かしい。


同志社の学生歌の一つに
四季の同志社」ってのがある。
一、春がきたかや 彰栄館の前に
  桜咲いた咲いた ビウチフリー
二、夏がきたかや チャペルの前を
  蛍飛んだ飛んだ ブライトリー
三、秋が来たかや 神学館の塔に
  月がさしたさした ラウンドリー
四、冬が来たかや 図書館の屋根に
  雪が積んだ積んだ ホワイトリー


「中世相国寺の以降復元」
室町〜戦国時代に作られた相国水路の石垣


同志社大学 彰栄館
建築年:1884年(明治17)
構造:煉瓦造2階建(内部木造)、瓦葺、塔屋付(4階建)
設計:D.C.グリーン 施工:尾滝菊太郎
【国指定重要文化財】

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