2013年11月30日土曜日

同志社の赤煉瓦たち⑦ 良心館 


卒業から四半世紀も時が過ぎると、
真新しい赤煉瓦も聳え立っておった。
2012年10月に竣工した「良心館」がそれ。

岩倉キャンパスに移転した同志社中学校の跡地に
ズド〜ンとかまえる40,000㎡を超える広さ。

そしてイマ日本一と言われる同志社の自慢の、
ラーニング・コモンズ」とやらも
ここに入っておるわけでありまして…

ヤル気さえあれば何でもできる環境は、
本当に羨ましい限りで。
もう一度入学したいキモチになりました。

そして学食とか...

ラウンジもスタバに行く必要なんてない。
逆に言えば大学が地域を潤わせてた頃とは、
大きく環境が変わったこともあり...
周辺に軒を連ねていた喫茶店や定食屋、
そして訳本屋さんなんてのも
すっかり姿を消してしまったようで、
それはそれでなんか寂しい気分。

こんなのが大学にあるって???マジ?

そんなラウンジの前に古い石組みが見える。
室町時代には、三代将軍足利義満が開基の
京都五山の1つ相国寺塔中(鹿苑院)。
そして江戸時代幕末には、
薩摩藩と相国寺、二本松藩邸があった。
いわば京都の歴史が刻み込まれた
場所であったことを示す展示もありました。

大階段とよばれるスペースでは演舞が、
繰り広げられていました。

虎次郎が学生の頃は、
明徳館前で行われていました。

良心を手腕に運用する人物を出さん」と願った、
新島襄の「良心」という言葉が冠された場所。

「一国を維持するは、決して二人や三人の
 英雄の力でできるものではない。
 それは実に、一国を組織するところの、
 教育あり、知識あり、品性ある、
 人民の力によらなければならない。
 これらの人民は、
 一国の良心というべき人人である。
 われわれはすなわち、
 この一国の良心ともいうべき人を
 養成したいと思っている。」
 (「同志社大学設立の旨意」より)

新たな時代にも
多くの“良心”が育まれることを...

同志社香里中高にある「良心の碑」

2013年11月27日水曜日

同志社の赤煉瓦たち⑥ 彰栄館


アメリカン・ボードの寄付により
D.C.グリーンが設計した「彰栄館」は、
もともと小規模の英学校として
スタートしていた同志社が、
今の今出川キャンパスである薩摩藩邸跡
移って初めて誕生した煉瓦建て校舎。

東側に向いた左右対称の建物である。
1951年に同志社中学校の教室棟として
増築された新彰栄館が、
正面右側に接触していたため、
左右対称のファサードになっていなかった。
新彰栄館は2012年末に撤去され、現在復元中。


館名はそれまでは建築順に第一寮などと、
付けられていたが宗教的な名前が冠された。
竣工時に二度目の渡米の途にあった
新島襄は
「彰栄ノ家彰栄館ト名ケラレシ由、
 誠二美ハシキ名ニシテ(中略)

 我事業ノ其名ニ負ケザル様致シタシ」と、
その竣工の報に接して日記に記したのだという。

キリスト教に風当たりの強い時代であったが、
京都府顧問であった山本覚馬が、
京都・相国寺門前の薩摩藩邸跡地を所有していた。
その5900坪を学校建設のために、
500円という超安値で売り渡したことが、
同志社をさらに大きくさせたと言われる。

塔屋は鐘塔と時計塔を兼ねており、
毎朝の礼拝を告げる鐘の音は、
同志社中学校が岩倉キャンパスに移転するまで、
司鐘生」と呼ばれる中学校の生徒が
担当していたのだそうだ。

「ある朝チャペルの礼拝の話の中で和田琳熊先生が
 「相国寺の鐘はGoneゴーンと消えてゆくが
  彰栄の鐘はCanキャンと叫んでいる。
  これは仏教徒キリスト教の性格の相違を
  象徴しているかのように思える」
 と語られたのは今も忘れられない。」
    (加藤延雄「彰栄館の時計と鐘」より)


設計のD.C.グリーンは宣教師は、
実は建築の専門家ではなかったのだそうだ。
子供のころ祖父の煉瓦積みを見ていた、
という経験を生かし設計したというが、
京都の町大工と力を合わせて作り上げた。

外壁はレンガ造りですが、内部は二階建ての木造で、
屋根も純和風の小屋組に日本瓦が葺かれ、
鬼瓦までのっています。
内部の構造は太い檜の柱と太い丸竹の壁下地、
これを土で塗り込めて厚い壁が作られていて、
まさに土蔵や城郭と工法が使われている。


校舎の建築が進むころ、
新島は英学校の大学昇格を目指して
精力的に東京を中心に活動していた。
ただ、ドイツ人医師ベルツに
いつ死んでもおかしくない」と
言われるほどの健康状態のなかで...
私立学校が大学昇格運動は、
この頃激化していったそうだ。

最初に認可されたのは、
福沢諭吉の「慶応義塾」で、
同志社はそのパイオニアを飾ることが
出来なかったのだが、
そこには政府に顔の利く諭吉の存在が
大きく立ちはだかったのだと思う。

1890年(明治23)に新島は力尽きる。
実は英学校の礼拝堂での葬儀の日が、
慶應義塾・大学部の開校日であったという。
そして...
同志社の大学昇格は1912年のこと。
新島の死後22年たってのことである。

彰栄館前のイチョウの雌木
秋になると踏まれた銀杏の匂い...
これもまた懐かしい。


同志社の学生歌の一つに
四季の同志社」ってのがある。
一、春がきたかや 彰栄館の前に
  桜咲いた咲いた ビウチフリー
二、夏がきたかや チャペルの前を
  蛍飛んだ飛んだ ブライトリー
三、秋が来たかや 神学館の塔に
  月がさしたさした ラウンドリー
四、冬が来たかや 図書館の屋根に
  雪が積んだ積んだ ホワイトリー


「中世相国寺の以降復元」
室町〜戦国時代に作られた相国水路の石垣


同志社大学 彰栄館
建築年:1884年(明治17)
構造:煉瓦造2階建(内部木造)、瓦葺、塔屋付(4階建)
設計:D.C.グリーン 施工:尾滝菊太郎
【国指定重要文化財】

2013年11月25日月曜日

同志社の赤煉瓦たち⑤ 明徳館


明徳館」は
中国の古典『大学』の三綱領の一つ
「大学ノ道ハ
明徳ヲ明ラカニスルニ在リ」に由来する。
第13代の 大塚節治 同志社総長が命名した。
新制同志社大学のシンボルとなる建物。

大きな教室「M21」は、
同志社EVEで大学のサークルで出店の
タイガースカフェをやったとこ。

そして裏手に
虎次郎の所属した文学部の研究棟、
この風景に立つと学び遊び、
そしてどこか照れくさい思い出も募る。

正面には1951とあるが...
1952年3月に第一期工事が竣工、
今のカタチになったのは第四期工事完了の
1954年10月の時だという。
これより高い位置にヨハネによる福音書の一節
"VERITAS LIBERABIT VOS"
(真理は汝らに自由を得さすべし)
と刻まれています。

食堂や靴屋、生協などがあったM地下への、
手狭なエントランスは学生の頃よりは、
少しは明るくはなっていたが...

低い天井に急な階段はそのままでした。

生協は新しい校舎に移ったようだ。

ここから見るキャンパスは懐かしい。

塔のたもとにあるのは、
ワイルド・ローヴァー号のタブレット。
新島襄が国禁を犯し、
函館から米船ベルリン号で出国。
函館~上海をベルリン号、
そして...上海~ボストンは
ワイルド・ローヴァー号で渡った。
船長夫妻の支援を受けて勉学に励んだ。



「同志社大学 明徳館」

建築年:1952年(昭和27)
構造:鉄筋コンクリート2階建て、地下1階、塔屋付
  (外壁 煉瓦色のタイル貼り)
設計:大倉三郎 施工:ミラノ工務店

2013年11月18日月曜日

同志社の赤煉瓦たち④ 同志社大学礼拝堂


「彰栄館」についでアメリカン・ボードの
寄付によって建てられた「礼拝堂」。
日本に現存する最古の赤煉瓦造の
プロテスタント教会であります。
正面中央に円形のバラ窓、左右にアーチ窓を設け、
その前に屋根と尖りアーチの入口を持つ。

石とレンガとの組み合わせが美しく、
簡素なアメリカンゴシック様式
木枠の窓に赤黄緑コバルトの色ガラスが
はめ込まれている。

大河ドラマ「八重の桜」の9月
使われていたオープニングは、
ここで撮影されたものなのだそうです。

設計はD.C.グリーン、
施工は「有終館」も請け負った
京大工の三上吉兵衛さん。





屋根を支える小屋組みは、
英国の古い手法をそのまま残している。
右手にある新島襄の肖像。
講堂には 山本覚馬J.D.デイヴィス
三人が一堂に会する
まさに同志社にとって特別の場所
 
「此礼拝堂ハ我同志社ノ基礎トナリ、
 又タ精神トナル者」だと、
1885年(明治18)12月、
新島は定礎式でそう述べたのだそうです。

堂内正面のアーチは昭和の始め補修されて
原型が分かったそうで、1959年、
2階を拡張して階段が二ヶ所に設けられました。

外からみるとこんな感じです。

もとはどうの中央に
色とりどりの唐草模様のある
金属製の笠がついた
アセチレンのガス灯があったとか。
現在は大正初期に改められた
電燈が灯されています。

大正期まではこの建物で全学的な式典や、
同志社EVEの音楽祭も行われました。

1981年11月には
近代洋風建築シリーズの
記念切手にもなっています。



「同志社礼拝堂」

建築年:1886年(明治19)
構造:煉瓦造り平屋建て、一部中二階と地下室付
設計:D.C.グリーン  施工:三上吉兵衛
【国指定重要文化財】