だんだん松山⑧ イヨイヨ松山城天守閣へ!

さぁ〜“イヨ” "イヨ"天守閣ですぞ!!

松山城のゆるキャラは「よしあきくん」。
築城四百祭に誕生したので今年で十一歳。
築城に着手した西国大名の
加藤嘉明がモデル。
ただ広大な平山城の完成直前に
会津藩へ転封になったとか…

次の藩主の蒲生忠知
二之丸などを完成させるのですが、
参勤交代中に京都で病となり無くなってしまい、
跡継ぎがいなかったため在藩7年で断絶に。

以降明治までは松平家が十四代世襲します。
天守は1784年の落雷で焼失するのですが、
黒船来航の翌年の1854年に再建された
江戸時代最後の完全な城郭建築として
その優美を誇っています。

大天守と小天守が連なる姿が残ったのは、
明治維新後も他城のように破却されることもなく
また維新の戦場とならなかったことのお陰です。

実は江戸城や大坂城の天守も将軍家の居城で
ありながら再建されることがありませんでした。
そんな時代になぜ松山城だけ
幕末に天守再建できたのか?

しかも天守閣をいただく本壇(天守丸)に、
切込みハギ」とよばれる
上質の石垣を設えることができたのか??
謎の多いお城だということだそうです。

天守閣内にもフシギなことが…

天守閣は防衛の要として籠城のためのもので、
普段は城主やその側近らも足を
踏み入れることはなかったそうです。

それなのに襖を入れるための敷居があり、
天井板も一重、二重、三重ともに付けられています。
おそらく畳も敷いていたのでは??
と思われる設えがなされています。

そして「床の間」までもが…
おそらく居住空間としての利用を
意図していたのでしょうか。

大天守の最上層に登るとその高さに驚き。
天気に恵まれれば石鎚山や瀬戸内の島々、
そして佐田岬も見渡せるそうです。

ボランティアの人と分かれるとき、
「ぜひゆっくりと
 天気の良い日に来てください」と。

こちらは東隅櫓とも呼ばれる「天神櫓」。
鬼門にあたることもあり、
城の安泰を祈る場所となっていました。
全国的にも珍しい寺社建築にみられる
蔀戸
(しとみど)が見られます。

久松松平氏の祖先神は天神様の
菅原道真であるとされていたようで、
家紋の「梅鉢」もこのことに由来しています。

日曜日の五月晴れに映える松山城!!

ふたたび訪れたいなぁ〜と(・ω・)v

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