2011年11月23日水曜日

ふたたび「大阪市立博物館」へ

大阪城天守閣復興80周年祭
ラストイベントは
特別公開が目白押し。
乾櫓・ 焔硝蔵」、「謎の石垣
そしてもう一つが
旧大阪市立博物館」の内部公開。

















かつて「大阪市立博物館」だった頃に、
虎次郎はここで博物館実習を受けた
もう20年以上前のことですが、
いわば青春の一ページを綴った場所。

自転車で通っていましたことを思い出す。
あの頃が一番充実した時間を
過ごしていたのだなぁ〜と感慨しきり。















第四師団司令部庁舎」からの転用だから、
動線が図りにくく博物館としては致命的」との、
学芸員のお話が印象に残っています。
















というのも異様に廊下が広く
展示室と展示室とのあいだに間延びが
生じるのが難点と言われていました。
さすがに3階は壁を取っ払って
展示スペースを確保されていましたが…































玄関部分のシャンデリアは
  一基だけ灯されていました。




















1階部分の中央にある階段周りの
     装飾も重厚そのもの…
















そして2階へ…
















ステンドグラスが美しい…































長期間使用されていなかったということもあり、
玄関エリアから2階までの
公開となっていました。
で…師団司令部時代の「貴賓室」へ。
















大阪市立博物館」時代には、
日本万国博覧会のタイムカプセルが鎮座する
「特別な場所」として使われていました。
















台座のみが残されていました。
2001年(平成13)の閉館時からの
この状態のままやったんでしょうね。
なんか物取りにあったみたいです。















天守閣前の広場に
このモニュメントの
地下15メートル下に2個埋設されています。

特別な場所」にあったタイムカプセルは、
2001年から博物館機能そのものとともに、
大阪歴史博物館」に移されています。


こちらは…
現在の「大阪歴史博物館」の展示の様子です。
階段下のコーナーに置かれていて
展示スペースも「少しこぢんまり」…

















「貴賓室」の雰囲気が今なお残ります。















天井の縁取りの「レリーフ」たち。
















そして
「貴賓室」から特別に
ポーチへ出ること
ができました。


















茶色なので「煉瓦造り」のようですが、
レンガではなくて
スクラッチタイル」で覆われています。

間近に見ると風合いがよくわかります。
















こちらは当初からのものと思われる
「貴賓室」の細工ガラス。
















博物館の雰囲気を伝えるものたち…

柏原市の「高井田横穴 壁画模刻」とか、



















チケット売り場とか…















タッチパネル式?の案内板とか…
ちょっと悲哀を感じながら後にしました。

















改めて外観を… 
軒の深い「車寄せ」は威厳を放つ堂々とした造り。

腰石と床は「花崗石」、
壁など全体的は「紫雲石」が用いられています。


















車寄せアーチの装飾も「紫雲石」。
この「紫雲石」というのは、
雨が降ると紫色に発色するから
この名がある。
1923年竣工の「大阪府庁舎」の
玄関部分の装飾にも使われています。



ぐるっと裏側も回ってみました。
















中央のステンドグラスの部分の裏
イチョウはまだ色づいていませんでした。
















屋上付近には半円アーチを繰り返した
ロンバルディア・バンド」と呼ばれる
装飾帯。
















塔屋の隅にみられる
タレット」と呼ばれる小塔。
まさに西洋の古城そのもの…

















この「中世の城郭風」が出現したのは、
まだ本丸御殿が残っていた頃のこと。
突如 ロマネスク様式が出現したのですから、
ちょっとセンセーショナルやったと思います…

ただ現在の大阪城公園のエリアは、
明治新政府になって「大阪鎮台」と呼ばれ、
1885年(明治18)以降は
第四師団」の置かれた
軍事施設

石垣のみの天守台をふくめ、
史跡としての許可がなければ立ち入れない
特別な場所」だったそうです。

天守復興のの復興にあたっては、
大阪市と第四師団などが協議を重ね、
司令部庁舎を建設し、
かわりに天守閣復興と大阪城の一部が
公園として整備されることになります。

堅牢な庁舎は内外ともに大変に
趣向を凝らしたものになっているのは、
このような事情があったのだそうです。


















青春の一ページを過ごした場所、
いろんな思いが交錯した時間となりました。


2011年11月22日火曜日

大坂城めぐり「豊臣時代の石垣」
















謎の石垣」は現在の天守閣の目の前の
本丸の地下に約7メートル下に眠っている。




















ちょっと大きなマンホールを開けたような、
コンクリートの枠に金属の格子ごし…
ライトアップされてはいるが、
写真でとらえるのはムズカシイ。
豊臣時代の大坂城の石垣遺構の公開は、
実に5年ぶりなんだという。
















見つかったのは1959年(昭和34)のこと、
大阪市と大阪市教育委員会、大阪読売新聞社が、
組織した「大坂城総合学術調査」によるもの。




















大坂城は洪積層の
 固い地盤の上に直接築かれている
という定説の確認のためのボーリング調査、
地下9.3メートルの場所から花崗岩が発見され、
高さ2.3メートルの石垣が確認されました。

火を受けた痕跡も見つかって、
夏の陣によるものか?との
  期待がふくらんだそうです。

















現在の大阪城の石垣と比べると
小ぶりの自然石が目立つ

いわゆる「野面積(のづらづみ)」と
呼ばれるものでしたが、
発見当初は豊臣期の石垣との
断定はなされなかったようです。

その後、
徳川幕府の京都大工頭をしていた
東京の中井家から
豊臣期の「大坂城本丸図」が発見。
詳細の検討の結果から、
発見された石垣が
大坂城本丸「中ノ段帯曲輪」のものであると
  考えられるようになったとのこと。

大阪城の地とは、
豊臣秀吉の築いた石垣と

徳川秀忠の築いた石垣の二つが、
今なお残る稀有な城郭遺構である
        ということ。





















そんな豊臣期の石垣を間近にみることが
できる所が天満橋駅周辺にあります。

大阪ドーンセンター横の石垣」
これは豊臣秀吉の晩年にあたる
1598年(慶長3)に
大阪城の防御強化のために造られた
豊臣時代の大坂城三の丸のもの。
1614年(慶長19)に
大阪冬の陣の講和条件として
徳川家康によって取り壊され、
地中深くに埋もれていたものです。
















こちらは「追手門学院小学校横の石垣」、
1984年に小学校校舎の
建替立替工事時に発見されたもの。
小学校 の地下には発掘されたままの状態で
石垣が保存されているらしい…















日本経済新聞社前の石垣」
こちらは徳川期の大坂城のもので、
1620年(元和6)に
城北の惣堀(そうぼり)に見立てた
旧大和川と淀川との合流点付近の
護岸用石垣なんだそうだが、
植栽が生い茂っていて
状況がよくわからなかったが…
















大坂城といえば太閤さん…でも、
地中深くに眠る石垣は

激動の大阪城の歴史を今に伝えるもの。

もっと身近に体験できる日が来ることを
楽しみにしておきたいと思います。
















2011年11月20日日曜日

大坂城めぐり「乾櫓」
















西の丸の西北に建つ「乾櫓(いぬいやぐら)」。
「戌亥=乾」とは西北を意味します。

徳川大阪城の櫓にはこの他にも
方角を示すものがあと三棟あったそうです。
玉造口付近にあった
艮櫓(うしとらやぐら)(北東)と
巽櫓(たつみやぐら)(東南)は
    明治維新の大火で焼失。
乾櫓の南側にあった
坤櫓(ひつじさるやぐら)は、
第二次世界大戦の空襲で失われています。































1956年(昭和31)から
1959年にかけて行われた解体修理の時に、
大棟の輪違瓦(わちがいがわら)に、
「元和六年申ノ九月吉日 ふかくさ作十郎」との
(へら)書きが見つかり、
1620年(元和6)の創建が判明しています。

千貫櫓」とならんで今に伝わる
大坂城の城郭建築のなかでも
   最古のものになります。
































L字形をしているのは
西ノ丸庭園からだとよく分かりますが、
一階と二階ともに同じ広さになっていて、
構造的にも面白く内部のつくりも、
うまく二棟をあわせたように設えています。

















鉄砲狭間=銃眼は外からは、
漆喰で塗り込められていますが16カ所。

















石落しは4カ所あり防御万全の櫓です。

















再築なった大坂城に徳川家光がはじめて
入城したのは1634年(寛永11)のこと。

大坂の住民に徳川の治世を浸透させるもの、
入城の翌日に、それまで大坂・堺・奈良に
課していた地子(土地税)を永久に
免除する宣言をしたのですが、
あらかじめ有力町民に地子免除決定の合図を、
隅櫓から将軍みずから采配をかざす
伝えられていたのだそうです。
その櫓とは「乾櫓」のことです。
















乾櫓は大手口と京橋口の二つの
入口をのぞむことができ、
西の高麗橋、東北の京街道を
見渡す所に位置にしていて、
いろんな意味でこの櫓は、
徳川の大坂治世の要
あったようです。