永久欠番 大社義規

ファイターズの初代オーナーの
大社義規(おおこそ・よしのり)さんは、
プロ野球で唯一のオーナーでの
永久欠番になっています。


札幌ドームにそのユニが
展示されていました。





















1915年2月1日、
香川県大川郡津田町で生まれた大社さん。
19歳のときに家業が失敗して
当時通っていた旧制高松高等商業学校、
現在の香川大学を中退されます。

叔父が経営していた養豚組合に就職したあと、
27歳のときの1942年に、
徳島に「徳島食肉加工工場」を設立。
今の「日本ハム 株式会社」の前身です。
その後、拠点は大阪市に移します。

食肉加工のトップメーカーを
目指していたのですが、
知名度が低さが営業の悩みのタネ。
そんな時に、
折しも日拓が東映から引き継いだチームの、

身売り話がでてきていたようです。
メインバンクからは反対の意向が
示されていたようですが、
まさに野球好きの大社さんには
千載一遇のチャンス。

旧制高松中学の先輩だった
三原 修 さんとの親交もあって、
食品メーカーとして初めての
プロ野球チームが1973年に誕生します。


球団誕生の翌年には売り上げが
前年の850億円が、
1091億円になったのですから、

まさに大英断だったといえるでしょう。


チーム名は「常に戦いを挑む集団たれ」と
ファイターズと名付けられたのですが、

10万通の応募から選ばれたのは、
岡山の女子高生で、
「岡山県出身の大杉勝男選手が
 ファイターなのでピッタリだと」

        というのが理由。

ビジターユニにはお決まりの親会社名。
「Nippon Ham」のロゴが、

スカイブルーに赤文字で彩られたのは、

前年までの日拓の七色ユニよりも、
パジャマにセンセショーなるなものでした。

野球は広告の手段ではありましたが、
大社さんは球界きっての野球好きオーナー。
足しげく球場に観戦に通い、
よく選手に声を掛けていたようです。
新入団選手発表記者会見には、
ほぼ毎年顔を出しておられたようです。

携帯電話が出始めたころは、
箱形のバッテリーつきの電話を肩から担がせ、
球団職員に1イニングごとの
試合経過を報告させていたとか。
会議に回るメモには試合のスコアが
書かれていたようです。

ファイターズはそんなオーナーの思いが叶い、
1981年にリーグ優勝します。
そのときオーナーが着ていたのが
背番号100番のユニだったそうです。

2002年8月、
日本ハムに激震が襲います。

関連企業による牛肉偽装問題が発覚。
大社義規さんは引責辞任。
チームも北海道に移転してしまい
野球を観戦する機会が減ったそうです。

2006年に大社義規さんが悲願だった
日本一を果たしますが、

その前年の4月27日に他界されています。

野球の大好きだったオーナーは、
2009年に野球殿堂入りされます。
毎年行なわれるオールスターでのセレモニー。
なんとこの年の開催地は札幌ドームでした。
ファイターズの本拠地で表彰されたのは、
まさに運命的なできごとでありました。









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